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ホロフォニクスと遠隔触覚
2004年3月27日
 
ホロフォニクス録音された音を聞くという事は、単に音を聞くという経験だけにとどまらない。聴覚を超えた知覚体験、いわゆる感覚誘導は、長くホロフォニクスと関わった人が共通して語る体験である。ヘアードライヤーの音からは実際に皮膚に風の感覚を感じる事ができる。爆発音では体全体に風圧と衝撃を感じる。床の振動の音は足に確かな衝撃を伝えてくる。耳に留まった蜂の立てる羽音はこそばゆい触感をもたらす。ときにはヘアードライヤーの熱風の温度や、マッチの硫黄の臭いを感じる事さえあるという。
こうした感覚誘導の起きる原因を考えてみると、聴覚と関連して起こる他の感覚が密接に結びついていることによるものだと思われるのである。たとえば風の音は皮膚に感じる風の感触が必ず伴っている。床の振動する音は、足にその振動を伝えてくる。爆発音は体全体に風圧による衝撃をもたらす。そしてその感覚の一部が失われた時、それを補おうとする現象が感覚誘導なのである。当然これらは人間が生後に得た体験に基づくものである。
しかし中には、そういった体験だけでは説明できないものがある。その一つが、人工ヘッドの耳を両手で塞がれた時に感じる圧迫感とも閉塞感ともつかない奇妙な感覚である。人間には五感というのがある。臭覚、視覚、聴覚、味覚、触覚の五つである。ただし触覚はさらにいくつかに分かれる。重力や加速度を感じる感覚である動感というのもある。方向感と言うのもあるが、朝目が覚めてふと自分の考えていた方角と違う方角に寝ている事に気付いた時、突然世界がぐるりと回転するような感覚というのがそれである。ただし人間では方向感に対応する専門の感覚器官を持っていない。
こうしたさまざまな感覚は大きく2つに分けることができる。その知覚像が身体に密着して生ずる感覚と、身体を離れて生ずる感覚である。身体と密着した感覚としては、触覚、味覚、臭覚がある。これらの知覚像は感覚器官に密着して生ずる。それに対して身体を離れて知覚像が存在する感覚がある。視覚、聴覚がそれである。
人工ヘッドの耳を両手で塞がれた時に感じる圧迫感とも閉塞感ともつかないこの奇妙な感覚は、触覚に非常に似たものでありながら、しかし直接皮膚に感じるものではない。体から離れた場所で知覚像を体験するという点で特徴的であり、触覚とは明らかに異なるものなのである。しかもその起源は聴覚なのだ。これと同様のものに気配のような感覚がある。目の不自由な人の多くは、回りからの反射音によって壁などの存在を感じ取る事ができるが、これも音として感じているのではなく、圧迫感や気配といった音とは別の感覚として認識しているのである。この感覚は遅延を利用したノイズの再生装置によって一般の人でも強力に体験することができる。そしてこの感覚も触覚に類似していながら、聴覚に起源をもち、知覚像が身体から分離して生じるといった点で、人工ヘッドの耳を両手で塞がれた時と同じ感覚なのである。こうした感覚はその性質から遠隔触覚と名付けるのがふさわしいかもしれない。
感覚の中には2つ以上の感覚器官によって生ずる感覚、いわゆる融合感覚がある。たとえば「味」である。というと味=味覚ではないかと反論されるかも知れないが、味覚そのものはごく単純で、実際に「味」と感じているものは臭覚との融合によって生じており、そのうちでも臭覚が大きな部分を占めているのである。また重力や加速度を感じる動感というのも、三半規管や触覚によって生ずる融合感覚である。
そういった融合感覚とは反対に、一つの感覚器官が異なった2つ以上の感覚を励起する例が、聴覚によって起こる遠隔触覚なのである。
このような現象と似たものに共感覚というのがある。発現例は少なく10万人に一人とも言われるが、一つの感覚の受容により別の感覚が一定の規則に基づいて励起される現象をいう。たとえばある音を聞くと、それに対応した色が見えるとか、味覚に伴って形を感じるとかいった例である、しかしこの共感覚は個人間の共通性に乏しく、また励起される感覚は、別の感覚器官によって起こる感覚なのである。
この点で聴覚によって起こる遠隔触覚は個人間で共通しており、五感とは独立した感覚であることから、より起源の古いものではないかと思われるのだ。聴覚によって起こるこの2つの異なった感覚は、もともと別々の感覚器官によって存在したものが退化によって融合した名残なのだろうか。それとも祖先から受け継いできたが、まだ独立した感覚器官をもつに至っていない新たな感覚なのだろうか。
地球上には自発的に音を発することにより周りの環境を知覚する生物がいる。彼らがどのように環境を認識しているのかは謎だが、こうした事を考え合わせると、もしかすると視覚的な像としてではなく、遠隔的な触覚として環境をとらえているのではないかとも思えてくるのである。
 
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