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なに録ってるの?
2003年11月11日
 
・・・というのはよく聞かれる質問である。
普段わりと人の通り掛かる場所で録音することが多い。大抵の人は無関心だが、興味深げに眺めている人もいる。そしてその内の何人かが必ずこの質問をするのだ。とくに1対1の時があぶない。確率90%である。
もっともマイクだと気付かない人もけっこう多い。その時は話がもっとややこしくなる。昔は、録音中なのに・・・、と思うこともあった。でも、最近はあきらめて親切に答えている。しかし、この質問、答に窮するたぐいの質問なのである。向こうから鳥の声を録っているのか、などと聞かれれば楽勝である。ええ、まあ、と曖昧に答えておけば間に合うからだ。
ところが何を・・・と聞かれると本当に困る。録音の具体的な対象物を意識していないからである。回りで鳥の声がしていたとしても、そういった個々の音は、録音中はすっかり頭の中から消えてしまっているのだ。
録音を始めた頃は特定の対象物を意識して録っていた時があった。ところがあとで聞いてみると意外とつまらない音なのである。たしかにその音はきれいに録れていて申し分ないのだが、ただそれだけ。じつに退屈なのだ。かえってその辺で何気なく録ったつまらない音の方が、目立ったインパクトはないものの、聞いていて不思議と飽きないのである。
けっきょく何年か試みたあげく、ひとつの結論に達した。立体音響は時間と空間に関わる世界である。十分すぎる時間はどんなに興味深い主題をも退屈なものにさせてしまう。そして限られた音だけで作られる音の空間は広がりがない。それは息苦しい閉塞間を与えるのである。
それではつぎつぎと変化する主題であればいいのかというと、そうでもない。結局その変化にも飽きる時がやってくるのだ。それは決して長い時間の後ではない。主題でありつづけることそのものが退屈を生み出してしまうのである。主題として存在する限り、その空間が限定されることも閉塞感を生み出す。いかに広い空間を占めていようとも所詮限られた世界でしかないのだ。
わがままなリスナーの興味は、つねに変化と広がりを求めているのである。その興味を支えるために、立体音響には絶え間なく変化し、広がり続ける広大な世界が必要なのだ。
その辺でいい加減に録った何でもない音がリスナーを飽きさせないのは、この音の作り出す世界があるからなのである。回りから聞えてくるさまざまな環境ノイズが、曲がりなりにも変化と広がりを提供しているのだ。いっぽうインパクトのある主題はつかのまリスナーを引き付けはするが、すぐに飽きられてしまう。なくてもがななのである。というより、時間かが経つにつれて邪魔になってくることさえあるのだ。
立体音響の作り出す世界は、聞えている音だけではなく、さらに音の到達距離と時間の限界を超えて広がって行く。そこはすでに人間の想像力の世界なのである。
というわけで、録音中に意識しているのは具体的な音源ではなく、直接音として聞えない世界や抽象的な概念であることが多い。
そんな時、何を録っているのかと突然聞かれると、本当に困るのである。ときには意地悪く、あなたが今聞いている音ですよ、と答えることもある。事実その通りなのだが、この皮肉な答えにその人は多分気を悪くするだろうと思う。相手は何か具体的で即物的な、この現実の世界の対象物を知りたがっているのだ。
何度も何度も繰り返し聞かれるのだが、いまだに満足に答えられないでいる質問である。
これをお読みの皆さん、どうか「なに録ってるの?」なんて聞かないで・・・
 
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