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黒い貴公子
2004年5月3日
電車の中でふと見たやまぐち号のポスター。そういえばSLって、実物が動いているところを一度も見たことがないんだったな。と以前から思っていたので、連休中に行ってみることにした。しかしSLに関する知識はゼロだ。SLのCDは10数枚手元にあるのだが、SLのファンでもないし、鉄道のマニアでもない。まったく未知の世界である。ではなんで持っているのかというと、実はSLの音の合間に聞える環境音に興味を持って集めたもの、SLの音はむしろバックグラウンドというか脇役である。本末転倒もはなはだしい。聞いた当時のメモが残っているが、SLに関するものはたった一つだけだ。それでは環境音のCDを買ってくればいいじゃないかと思うのだが、でも何かが違うのである。環境音のCDって総じて単調で退屈なのだ。
行くと決まったからには、何にせよまず情報である。ところがゆっくり調べている時間がない。現地の地図さえ買いにいく暇がないのだ。とりあえずインターネットから地図を検索して路線を調べてみる。録音でもしてみようという魂胆があるので、カーブとトンネルがあって、主要道路から離れている場所という条件で調べてみると、仁保の辺りと船平山の辺りが候補にあがる。仁保は牧川川に沿って登っていくか、または仁保病院の方向から。船平山は駅側からにするか、山を越した津和野側にするか。仁保の方が音的には魅力があるが、汽車を待つあいだ退屈しそう。船平山の駅側は勾配が緩やかで平野に開けているので、あまり録音向きではないかも知れない。津和野側の方がその点良さそうだが、すぐ傍を道路が通っているのでどんなものか。
結局、船平山駅で降りる事にした。もしかすると山を越す道があるかもしれないし、帰りに仁保側を見て帰れる。
などと考えているうちに何か頭の隅に引っかかるものがあって、手元にあった小川正雄氏録音・編集「デジタルサウンドSL」を引っ張り出してライナーノートを広げてみる。なんとここにありました。このCDには国鉄山口線と大井川鉄道のSLが収録されているが、中でも山口線のC571仁保〜篠目間通過をとらえたトラック3の出来がなんといっても素晴らしい。最初の汽笛が聞えたあとずっと鳴きつづける蝉の声が山間の静けさを演出してくれるし、飛び回る虫の羽音は景気良くリスナーの目の前まで飛び出してくる。客車の中から叫ぶ子供の声も楽しい。場所が場所だけに、遠くから聞える汽笛のエコーも申し分ない。列車の通過する前後の環境音の部分が特に長く集録されており、お気に入りの一つである。ノイズがまったく目立たず、歪み感も少なく、とてもアナログ録音とは信じられないくらいだ。同時に集録されている船平山の録音は、津和野側からのようである。17年近くも手元にあって気が付かなかったとは本当に困ったものだ。
Sample1.mp3 1分11秒 1.35MB 崩れた山の斜面や、水路の斜面の土の中で鳴いている。なんとなく笑っているようにも聞える。やがで麓のお寺の鐘が鳴り出した。人工ヘッドAlqays"とTCD-D100で録音。(すべての音響効果をOFFにして、ヘッドフォンでお聞き下さい / Please turn off all of sound effects and use a headphone)
そんな具合に行先が決まったところで時刻表を調べてみると、どうしても到着は昼過ぎになってしまう。津和野行きの汽車には間に合わない。というわけで前の晩に出発することとなった。当然新山口あたりで一泊ということになるのだが、都会の空気の汚さは身をもって知っている。街の安ホテルなんかしゃらくさい。だいいち時間の無駄だ。一気に船平山まで行ってしまえ。当日の機材は人工ヘッドとDATのみ。ただしMDをバックアップで持って行くことにした。荷物は必要最小限。弁当もなし。現地で何とかなるだろう。ならないかも知れないが、どうせいつものことだ。当日の天候は午後から崩れるそうだが、雨具はなくとも何とかなりそう。
というわけで日の沈みかけたころに出発。岡山で新幹線に乗り換える。いつも鈍行しか乗らない田舎者には新幹線は苦手な列車だ、なんとなく違和感があって落ち着かない。新山口までの1時間はとても長かった。ここから山口線に入る。2両編成のワンマンのディーゼルカー。こちらは至って気楽。1時間半ほどの旅程だが、かえって短く感じられるから不思議なもの。乗っていて不安になったのが警笛をほとんど鳴らさないこと。1回だけしか記憶には残っていない。特に仁保から長門峡の間で一度も聞かないのでいよいよ心配になった。明日は大丈夫なのだろうか。仁保を過ぎる辺りから勾配が急になり、客車の窓の縁を見ていると、傾斜がだんだん大きくなっていくのがよく分かる。窓の外は暗闇だが、所々にかすかに水の輝きが見える。雨に濡れた道路かと思ったが、どうも水田のようだ。ちょうど田植えの時期なのだろう。
22時2分船平山駅着。駅の周りには民家は少ないのではと思っていたが、そうではなく民家が路線のすぐ傍まで迫っており、その隙間に駅があるという感じだ、まずホームから降りようと思ったが階段が見つからない。やっと階段を見つけて降りると、今度は駅から出る道が分からない。しばらく捜しているうちに民家の横の屋根の下を摺り抜けて出る道がそうだと分かった。なんだか取って付けたような感じのする不思議な駅である。路線ができてから随分後で作られた駅なのかもしれない。この時間あまり人家の周りをうろうろするのは良ろしくないので、近くの自販機で飲み物を買って駅舎に帰る。駅舎は3畳ほどの広さでベンチがあるだけ、だがとにかく入口に雨風を防ぐ引戸はある。風が強くなり時々雨がパラつく天気だ。明日はどうなるのだろう。路線の向うの田んぼで蛙が鳴いているので、風に打たれてガタガタ鳴る駅舎の窓の音と共に1時間ほど録音してみたが面白くもなんともない。夜も更けてきて、11時半で消灯となる。それではおやすみなさい。
翌朝は鳥の声で目が覚めた、と言えば聞こえが良いが実は寒さで目が覚めた。いやその両方かも。まだ暗いうちから鳴いている。昨晩と変わらず風は強く、雨もパラついている天気だ。どんよりと一面に曇った天気ではなく、雲が豪快に飛び交っているのは救いではある。せっかくなので、下見がてら辺りを散策することにした。路線のカーブの外側を大きく回ってトンネルの方へ登って行く。林道があったので数ヶ所登って見たが、いずれも行き止まり。山の道がたいていどこかに通じているような場所に住んでいる人間にとっては、突然道が途切れるのは何とも言い難い不安と恐怖を感じるものだ。しかしこれは予想通り。こういった林道は植林した木々の手入れのためのものであって、人間が通行するためのものではない。やはり山の向う側に出るのは無理だった。
最後の長い林道を引き返してくると、途中で蛙の鳴いている場所を発見。谷川の水音と共に2時間ほど録ってみた。笑っているようなちょっとか細い鳴き声である。途中でふもとのお寺の鐘の音が聞えてきた。野鳥のさえずりの彼方に教会の鐘の音というのは何かのCDで聞いたが、蛙にお寺の鐘はどんなものか。
そこから少し開けた場所の藪の中に入って行くと、カサカサと規則正しい音が聞えてきた。ふと足元を見ると、すぐ近くでマムシが尻尾を振っている。もう少しで踏んづけるところだった。マムシは有毒の生物に特有のふてぶてしさでもって居座っているので、礼儀正しくこちらから退くことにする。山の中で毒蛇と意地の張り合いをするのは得策ではない。それにしてもなんだってこんなところにいるんだ。
そろそろ良い時刻になってきたので、朝メシを求めて人界に下りる。ところが駅の近くを捜しても、雑貨店というか、万屋というか、酒屋というか、食料品店というか、駄菓子屋というか、そのような類いものは一切見当たらない。まだ時間は十分にあるので、散歩ついでに平野を突っ切って向こうの山裾の9号線沿いの集落まで行ってみることにした。平野といっても傾斜があるので畑や田は段差があるし、水路は深く川は地面よりずっと下にある。歩いているうちに晴れ間の見える天気となった。
向こう側について捜して見たがやはり見当たらない。頼みの綱のレストランは準備中だ。どこかにあるはずだか、捜している間に行き倒れになりそう。あきらめて帰りかけたら酒屋を見つけた。パンは売り切れだというのでポテトチップスを買う。これがたぶん今日一日の食料になるのだろう。
そろそろいい時刻なので、同じ道を辿って帰る。それにしてもやけに広々とした平野だ。人家や建物が両側の山裾に集中していて平野にはほとんど見あたらないので余計にそんな感じがする。まんなかを南北に3Km近い道が走っているが、障害物のない一直線の見通しの良い道路だ。バイクでぶっ飛ばしたら気持ちが良さそう、と思っていると早速やって来た。そういえば昨夜も音が聞えていたっけ。
Sample2.mp3 1分59秒 2.28MB 津和野から徳佐へ向かう汽車。ここ船平山には停車しない。鍋倉辺りまで汽笛の音が聞えていた。人工ヘッド#Alqays"とTCD-D100で録音。(すべての音響効果をOFFにして、ヘッドフォンでお聞き下さい / Please turn off all of sound effects and use a headphone)
まもなく下りの汽車のやってくる時刻。ふたたび雨が降りはじめたなかで場所捜しである。けっきょく路線のカーブの内側の、トンネル近くの山道から録って見ることにした。撮影場所を捜していると遠くからブラスト音が聞えてくる。昨日の予感が的中して汽笛は全く聞えない。やがて駅のカーブを曲がって姿が見えてきたが、アレッという感じだ。SLというと黒煙と蒸気を吐き散らし、男性的で力強く、ブラスト音も勇ましく傍若無人に走り回る黒い巨人、といった思い込みがあったのだが、実物を見ると全然違う。むしろ小さくてかわいらしいといった印象で、静がに礼儀正しく走ってくる。傍若無人さなど微塵もない。歳経たというよりもむしろ若々しい感じだ。トンネルの直前まで来ると、とつぜん汽笛一声。すさまじい音でこれにはビックリした。汽笛ってこんなに大きな音がしたっけ。もしかすると指向性が強いのかも知れない。とにかく録音は失敗だ、マイクの耐入力を完全に超えている。
次ぎの通過は3時間後。雨と風は少しづつ強くなってくきた。もういちど山を越える道を探してみたが、どれもすべて行き止まりになっている。もう次ぎの汽車までそんなに時間もないので、遠くに出かけるわけにもいかない。路線のカーブの外側に出て田んぼで鳴いている蛙でも録ってみることにした。水田の中ではなく、畔道の土の中で鳴いているようなのだが、姿は一向に見えない。帰ったあとで鳴き声から調べてみるとニホンヒキガエルのようだが、違うような気もする。山で鳴いていた蛙はなんなのか未だに分からない。ついでに調べて見ると、自宅の周辺の水田で鳴いている蛙は主にトノサマガエルとツチガエルだとばかり思っていたら、ダルマガエルとヌマガエルも相当数いるらしい。雨と風はだんだんひどくなり、山裾の杉の木の下に避難するが、この木は雨が漏る。
まもなく通過の時間。路線から15mほどの水路と水田の間の空き地にセットし、人間の方は路線の脇に移動して待つ。まだ何も聞こえてこないが蛙はピタリと鳴き止み、数秒後に汽笛の音。今度は耳慣れた音量だ。やはり指向性がかなり強い音源のようだ。遠くから汽笛の音だけ響いてくるのはこのせいなのだろう。目の前を一瞬通過した蒸気機関車にまたもやアレッと思った。カーブで下り坂と言うこともあるが、男性的というより華奢で女性的な印象さえ受けた。古風な貴公子といったところである。これに比べたら新幹線なんかプレデターだ。むしろ怪物的な感じがする。さらに気前良く駅の前で一声、そのあと長い時間をおいて3回。鍋倉あたりまで聞えていたんじゃないかと思う。
雨は大したことはないが風が強いので寒さがこたえる。駅舎まで引き上げて帰りの列車を待つことにする。17時1分発、途中で仁保辺りを車窓越しに見て帰る。緑の谷といった感じのところで雄大なエコーが期待できそうだ。でもどうやって路線までたどり着けばいいのか分からない。道なき道の草を薙ぎ払い、木を蹴倒して進まなければたどり着けないという感じである。新山口で新幹線に乗り換え、一路岡山へ。途中徳山市あたりの工業地帯なのだろうか、ここの夜景はなかなかの壮観。都会の夜の人間臭さや猥雑さなど微塵もない。短いが最初となるSLの旅の終りにふさわしい風景だった。
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